遺された者たちの役割

子供の頃に飼っていたシーズー犬のランが散歩のとき、道路の向こう側に居た私の母親を見つけ道路を横断しようとしたときに反対車線から来た大型トラックに撥ねられました。
 
失ったとき、初めてその存在の大きさに気づくことはよくあることですが、10歳に満たない当時の私にとって、この現実はあまりにも大きく、言葉を発することすらできなかったことを覚えています。
 
小学校から帰宅すると靴も脱がないままランドセルだけ玄関に放り投げ遊びに出かけていた私が、友達と遊ぶこともやめ、家に篭もりっきりになるほどショックは大きく、全てにおいて無気力な状態に陥りました。
今で言うペットロス症候群です。
 
そんな私の姿を見かねた父がドライブに連れていってくれたのはランを失って半月ほどたった頃でした。
 
父は車中でいろんな話をしてくれたのですが、今でも心に残ってるのは「人間でも犬でも生き物はみんな役割をもって生まれてくるんや。ランはその役割をはたしたから神様のところにいっただけなんやで」という言葉でした。
 
「ランの役割ってなんやったん?」と尋ねた私に父は「それはこれからお前や姉ちゃんが大きくなっていくにつれてきっとわかるから」
 
当時の私にとって、その父の返答は理解できず、幼い思考で真意を探したが見つかりませんでした。
 
でも、父がその場しのぎで言ったようにも感じられず「ランが生まれてきた役割」なるものを日々考えるようになり、月日が経つにつれ、ランから教わったこと、残してくれたものが沢山あることに気づくようになりました。
 
それは、自分の成長の過程で、捉え方が変わっていくことはありましたが、私の中で思想や感情や価値観と変わり、時に励まされ、時には勇気づけられ人生の節目となる決断を迫られる場面では必ずランの存在を身近に感じていました。
 
そのことを教えてくれた父も五年前に亡くなり、目に見えない存在になった今でもランと同じように私の心の一部となっていろいろな教訓を発信し続けてくれています。
 
それらの支えを感じながら選択と決断を幾度も繰り返し、現在、ペット葬儀とペットロスのサポートに携わる仕事をしてる自分の姿を父やランが天国から見ていると思うと不思議な気持ちになりますが、先立った者たちの思い出は鮮明に心に残り、これからもなくなることはないでしょう。
 
そしてこれからも自身の教訓となって導いてくれると思っています。
 
ランが生まれてきた役割は今でも私の中で模索中であり日々進行系の課題でもあります。
ひとつの結論に至らなくとも、方向性らしきものが見えるときもありました。
 
それは他人から見た場合、当事者の都合の良い解釈やこじつけに映ることであるのは百も承知ですが、それを決めれるのは、他人ではなく、自分自身なので気にする必要はありません。
 
ただ一つ言えるとすれば遺された者たちは先立った者たちの生きた証となるべく、かれらへの想いを胸に現実の世界を自分らしく生きるということが大切だと私は思っています。
 
 
それこそが遺された者たちの役割だと。
 
 

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